コナン・ドイル──世界一有名な出版代理人

※ミス研の部誌に掲載した作家レビューです。
かの有名なシャーロック・ホームズシリーズの著者はワトソン博士であり、コナン・ドイルは出版代理人に過ぎない、と主張したら、失笑を買うだろうか。だが、世の中にはそれを堂々と主張し、それを前提として小説の中の出来事を現実として語り合う人々がいる。所謂シャーロキアンという人種である。
「ミステリ」という分野を創造したのがポーだとしたら、「名探偵」という装置を完成させたのがコナン・ドイルだろう。強烈なキャラクターと、天才的な推理力。作品内における神として君臨し、時には世界を崩壊させ、再構成する力をも持つ「名探偵」。『緋色の研究』でシャーロック・ホームズが登場したときから、名探偵という存在が生まれ、そして名探偵の苦悩も始まったのだ。
ある意味で、名探偵の苦悩を最初に味わったのは、名探偵の創造者でもあるドイルだった。ホームズが登場する作品が発表され、人気を博していくにつれて、名探偵ホームズのキャラクターは一人歩きを始める。
だが、作者であるドイルはホームズよりも歴史小説やSFに価値を感じており、望まないホームズ人気の高まりに、ついには名探偵の殺害を決意する。そうして書かれたのが『最後の事件』である。しかし、ホームズの人気は衰えることを知らず、新たな作品と名探偵の復活を望む読者の声に負けて、ついにドイルは『空家の冒険』でホームズを生き返らせることとなる。
そしてホームズは結局、五十六の短編と四つの長編に登場し、最終作『最後の挨拶』で引退した。因みに、一度目の失敗の影響かどうかは不明だが、作品中ではホームズの死亡は明記されていない。そして熱心なシャーロキアン達は、そのことと、ホームズが死ぬまでに執筆すると明言していた研究書が未だ出版されていないことなどを理由に、ホームズは死んではいないと主張したりもする。
さて、当初からそのような熱心なファンを多く持つホームズ作品ではあるが、その正典とされるドイルによる作品群は、必ずしも厳密な検証はなされていない。というより、そのようなことは殆ど意図されずに書かれており、多くの矛盾が存在する。現代の推理小説を読み慣れた読者には、このことが不満に感じられ、子供向け作品と考えてしまう向きもあるだろう。
だが実際には、そのような矛盾や多くの隙が、他の名探偵には無い、シャーロック・ホームズ研究という新たな楽しみを生み出し、多くの知識人たちを虜にしているのだ。また、研究をするだけでは飽き足らず、自ら名探偵の「語られざる事件」を執筆する人々も存在し、パスティーシュという形で、新たなホームズの冒険譚を生み出し続けている。
発表から百二十年近くを経ても薄れることのないホームズ作品の魅力。それは物忘れの多い記録者ワトソン博士と、怠惰な出版代理人コナン・ドイル氏によって残された、多くの隙にあるのかもしれない。